構成文化財の名称 | |
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指定等の状況 | 市指定(無形民俗)ほか |
ストーリーの中の位置づけ | 降雨を願った神事や風習。山鹿市の宗方万行(むなかたまんぎょう)・小坂(おさか)雨乞い踊り・川北の雨乞い踊り、玉名市の大野下(おおのしも) 雨乞い奴踊り、和水町の米渡尾(めどお)のひゅうたん回しなど。 |
文化財の所在 | TAMANA、YAMAGA、KIKUCHI、NAGOMI |
箇所が特定できない文化財については、大まかな位置を示しています。
構成文化財の名称 | 概要 |
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大野下雨乞い奴踊り | 米作りに欠かせない水を求めるため、用水施設が整っていない時代、人々は踊って天に雨を願いました。その雨乞い習俗の一つとして、玉名市岱明(たいめい)町大野下には「大野下雨乞い奴(やっこ)踊り」が伝わっています。踊り手は白法被に姿に陣笠を被った江戸時代の参勤交代時の奴のいでたちをしており、手には御幣(ごへい)と「雨降ろう」という言葉にかけた「フロウ豆」を付けた竹を持つのが特徴です。 加藤清正の頃(江戸時代初期)、干拓工事によって岱明町大野下付近には新たに水田ができました。しかし、井手など用水施設が整っていなかったため、干ばつになると数日間神社に泊まり込んで、雨乞いの祈祷をしていたと言われています。これに太鼓や鉦(かね)、踊りが加わり、江戸時代に現在のようなかたちになったを考えられています。踊りの動作には「こぶしで天を突くことで龍神を怒らせて雨を降らせる」「腰を落として足で地を踏み固め豊作を祈る」という意味が込められているとのことです。 戦前は水不足のときのみ不定期で行われていました。しかし、用水施設の普及により水不足に悩まされることがなくなった現在は、大野下八幡宮の祭礼「総ごもり」に組み入れられ、八大龍王神社と大野下八幡宮で、毎年7月の最終日曜日の早朝8時ごろと10時ごろに奉納されます。 |
住吉日吉神社雨乞い太鼓 | 住吉日吉神社は合志川右岸に位置し、神社上流の北東には堰があります。住吉日吉神社雨乞太鼓の由来については、今からおよそ500年前、時の合志郡の地頭合志隆門(こうしたかかど)が、旱魃(かんばつ)により住民が苦しむのを見て人々の災難を救おうと、住吉日吉神社の神前に軍門の太鼓を用いて三日三晩打ち通し、滝の様な雨に恵まれ、それ以来米作りのために雨の恵みがあることを願い氏子総出で祈願するようになったと伝わり、現在は、夏の7月20日前後の日曜日に、会員が集まって神社で奉納しています。 雨乞太鼓は太鼓組として数人で受け継がれていましたが、後継者が心配になり、昭和58年(1983年)に住吉日吉神社雨乞太鼓保存会が結成され、現在飛熊、上住吉、北住吉、南住吉の4地区から15名余の会員が毎年7月の川祭りや町内外の要請などで練習を重ね活動しています。太鼓は直径115㎝、厚さ65㎝、重さ80kgの大太鼓で、叩き手は2名1組、1人は小撥(こばち)でリズムをとり、もう1人が大撥(おおばち)で打ち込みます。小撥は大撥が数人叩く間は交代しません。 午前中は「川祭り」として神社前に流れる井手の取水口付近に御幣とナス、キュウリが飾られ、正午近くからは雨乞太鼓が行われます。合志川上流の堰にも御幣とナス、キュウリが飾られます。河川が氾濫する原因は川太郎(河童)が原因であるとされ、河童の好物であるナスやキュウリをお供えすることで川の氾濫がないようにと願いをかけていると考えられています。 菊池市指定文化財。 |