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菊池川流域の条里跡、区角割
構成文化財の名称 | |
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指定等の状況 | 未指定 |
ストーリーの中の位置づけ | 8 世紀ごろに1 辺約109 m 四方1ha(10,000 ㎡)に田が区画された。現 在もその区画が残り、米作りが続けられている。 |
文化財の所在 | TAMANA、YAMAGA |
箇所が特定できない文化財については、大まかな位置を示しています。
構成文化財の名称 | 概要 |
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内田川流域条里跡(菊鹿条里区) | 菊池川の支流、内田川(上内田川)沿いの田んぼ一帯には正方形の条里の区画がはっきりと残っています。戦後直後の米軍の航空写真を見ると、縦横の軸線が現在とほぼ同じです。昭和の終わりに圃場(ほじょう)整備が行われましたが、軸線と1区画の1辺が109mという間隔はそのまま活かされました。 条里跡の南東には鞠智城跡(きくちじょうあと)があり、そこから条里跡を望めます。 また、この地域には「三十六(さんじゅうろく)」という地名も残り、条里のときに使われた数字での呼び方がそのまま使われています。 菊池川流域には、8世紀ごろに整備された条里制による、1辺109m四方の区画割が見られます。特に、菊池川の中流域となる菊鹿(きくろく)盆地や下流域の玉名平野にその区画が残り、いわば「千年以上の田園風景」が続き、現在もなお米作りが続けられています。 |
玉名平野条里跡 | 玉名平野は、菊池川下流域に広がる谷底平野と三角州平野および最下流域の干拓地を含む平野の総称です。今から約7千年前の縄文海進時は、谷底平野がある新玉名駅の北側まで海岸線は後退していたと考えられますが、この谷底平野に縄文時代晩期(今から約2500年から約3000年ほど前)の遺跡がみられるため縄文海進後は、徐々に陸地化していったと考えることができます。谷底平野では、弥生時代以降稲作が盛んにおこなわれたと考えられ、現在の新玉名駅周辺(両迫間日渡〔りょうはざまひわたし〕遺跡)では弥生時代の畔(あぜ)が見つかっています。 また国道208号バイパス建設に伴う発掘調査(柳町遺跡)では古代の土地管理制度である条里制に伴うと考えられる畔(大畦畔:けいはん)が見つかっています。古くから玉名平野では古代条里制が行われていたと考えられており、それを裏付ける大発見となりました。 |