構成文化財の名称 | |
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指定等の状況 | 国指定(史跡)ほか |
ストーリーの中の位置づけ | 熊本藩の御蔵で、ここに菊池川流域の米が集められ大坂堂島へと運ばれた。毎年20万俵以上が搬出された。西南戦争で焼失したが、蔵の礎石などの遺構が残る。また蔵に隣接して御茶屋を設け、ここに藩の重要施設を集中させた。 |
文化財の所在 | TAMANA |
箇所が特定できない文化財については、大まかな位置を示しています。
構成文化財の名称 | 概要 |
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高瀬御茶屋跡 | 高瀬御茶屋(たかせおちゃや)は、江戸時代につくられた熊本藩の施設で、藩主、賓客や藩士の宿泊・休憩などに利用されました。現存する江戸中期作成の絵図「高瀬御茶屋絵図」には、塀に囲まれた施設の構造が描かれており、井戸と17部屋ほどがあったようです。しかし、1877年の西南戦争によって、隣接する高瀬御蔵と共に焼失し、現在は井戸のみが残っています。また、高瀬御茶屋のものとされる九曜文の鬼瓦が伝えられています。 2005年度に実施した倉庫建設に伴う確認調査では、井戸の付近から丸瓦を使用した排水管が検出されました。これは井戸で使用した余り水を外部に排水するための遺構と考えられます。この地は西南戦争後に整地され、西側に焼けた瓦が大量に埋められていました。また、1891年に鉄道を通すための大規模工事が実施されため、遺構の大部分は残っていない可能性があります。 |
高瀬御蔵跡 | 高瀬御蔵(おくら)は、菊池川流域の村々から舟などを使って運ばれてきた年貢米の品質検査と保管を行う施設で、江戸時代に熊本藩が整備しました。 江戸時代、各藩の年貢米は大坂堂島の米市場に集められ、そこで取引をして米をお金に換えて、藩の収入にしていました。文化年間(19世紀初頭)に熊本から大坂堂島へ運んだ米の量は最大40万俵で、そのうち高瀬から20万俵、川尻から15万俵、八代からは5万俵でした。高瀬御蔵で取り扱う年貢米が最も多いことから、その品質や量が熊本藩の収入に大きな影響を及ぼしました。厳しい品質管理を行い、収穫量も多く安定していた肥後米は、大坂堂島の米市場で建物米(たてものまい:取引期間中の基準となる銘柄)に選ばれるなど、全国の米の中でもトップクラスの評価を受け、高値で取引されました。 建物は、隣接していた高瀬御茶屋とともに、明治10年(1877年)の西南戦争で焼失し現存しませんが、蔵の痕跡として礎石列の一部が現存します。 |