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菊池川流域日本遺産 米作り、二千年にわたる大地の記憶~菊池川流域「今昔『水稲』物語」~

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菊池川流域日本遺産 構成文化財

正観寺境内

正観寺

輪足山 東福寺

手水山 南福寺

手水山 南福寺

構成文化財の名称 正観寺(しょうかんじ)・菊池五山(きくちごさん)
指定等の状況 市指定(史跡)
ストーリーの中の位置づけ 中世に開発をすすめた菊池氏の文化の繁栄を偲ばせる寺社。正観寺(しょ うかんじ)は15 代武光の菩提寺である。また菊池五山は、菊池氏が領内の 文教を盛んにするため鎌倉に倣い定めたもので、東福寺、西福寺、南福寺、北福寺、大琳寺の五寺からなる。
文化財の所在 KIKUCHI

構成文化財の所在地

箇所が特定できない文化財については、大まかな位置を示しています。

構成文化財の名称 概要
九儀山大琳寺  大琳寺は菊池市大琳寺、迫間川と菊池川に挟まれた平野部に位置します。大琳寺は『国郡一統誌』に「久木野大林寺ハ観世音像ヲ安(置)ズ」とあり、『肥後国誌』では九儀野山、久木野山、実相山ともいう禅刹の跡であると記されています。15代武光が菊池五山を定めたとき、地理的にほぼ中央に位置する所に九儀山大琳寺を建立したとされています。
  『肥後国誌』には「此ノ寺頽転(たいてん)シ、四方昿田ニシテ僅カニ一畝ニ足ラズ、境内ニ九尺四面ノ草堂ニ六臂ノ観音ヲ安ズ、古ノ本尊ハ大日如来ト云、開基等分明ナラズ」と記されています。
 天文19年(1550年)9月、大友義鎮(宗麟)は北福寺の永珠を大輪(琳)寺住職に任じています。文化11年(1814年)頃の『深川手永手鑑』には「氏仏大日 菊池時代九儀山、又ハ中央山大琳寺ト唱エ、菊池五山之内」と記されています。
 もとは現在地から南の「古堂」と呼ばれる田地にありましたが、宝暦5年(1755年)、大風で倒壊し現在の場所に移されました。
 菊池市指定文化財。
袈裟尾山北福寺  北福寺は迫間川右岸の袈裟尾に位置し、『肥後国誌』に「弘仁四年(813年)伝教大師ノ草創 初メ永福寺ト号シ 天台ノ教刹ニテ十二坊アリ」と記されています。当時は上宮が中堂より一里余り北東の永尾坂にあり、伝教大師自作の大日如来が安置され、鎮守には山王七社を勧請、中堂には薬師仏と十二神の彫刻があり、神仏習合時代の様子が残ります。山の下には万福坊はじめ12坊が配され、当時規模が大きい大寺院だったと考えられます。勅命で「寺領壱千石、祈祷料千貫文」を賜りましたが、一時廃寺となります。
 10代武房によって再興され、15代武光が菊池五山を定めたときに北福寺と改称され、その一寺となりました。その後、21代重朝の頃には江月山玉祥禅寺(こうげつざん ぎょくしょうぜんじ)の末寺となります。
 『古塔調査録』には「今僅カノ草庵トナル、此ノ四隣ノ田畑・山林中ニ古塔ノ残リテ散在スルヲ見レバ、古ハ大寺ナルコトヲ知ル可シ」とあります。
 『菊池郡誌』によれば、菊池33霊場の18番札所になります。
 菊池市指定文化財。
手洗山南福寺  南福寺は菊池川左岸の出田(いでた)の南、花房台地の崖下にある湧水を持つ堂宇で、本尊は高さ81.4cm、肩幅36cmの薬師如来坐像です。
 『国郡一統志』には「手水山南禅寺ハ薬師像ヲ安ジ、檀下ニ清泉有ル故、之ヲ名ヅク」とあり、『肥後国誌』に「台(天台)宗ノ古跡と云ヘドモ開基分明ナラズ」と記されています。文化11年(1814年)頃の『河原手永手鑑』には「薬師堂 菊池公時代手水山南福寺ト唱ヘ、五山ノ内」とあります。
 15代武光が五山を定めたとき、その一寺となりました。『菊池風土記』によれば、もと天台宗であったが浄土宗になったとされています。付近一帯には五輪塔も散在して、この地にいた菊池一族の武将で出田氏に関係したものかと偲ばれます。寺の上に「イワミさんの墓」と称される全高318cmの五輪塔があり、その東方の通称ミツル山には「永正十五歳戌寅(1518年)」と刻まれた自然石板碑があります。
 菊池市指定文化財。
無量山西福寺  西福寺は菊池市西寺、迫間川と菊池川に挟まれた平野部にあり、和銅2年(709)の開基と伝えられますが、開山は不明です。赤星有隆の墓が近くにあります。無量山と号しまするが、もとは禅の古刹で、後に浄土宗に変わりました。
 15代武光が菊池五山を定めたとき、その一寺となりました。文明13年(1481)8月の「菊池万句」に「月ならて 苔地に秋の 色もなし 西福寺 廣誉」の句があり、廣誉開山説もありますが年代が異なります。
 『国郡一統誌』には「無量山西福禅寺ハ阿弥陀仏像ヲ安ジ、鎮守八幡・祇園・阿蘇三社ナリ」とあります。本尊は木彫りの阿弥陀仏で蓮台の上に立ち、台高19cm、身丈91cm、肩幅25cmで、孔雀の彫りがあります。光背は高さ118cm、均整のとれた仏像は室町末期の作と推定されます。
 本堂裏手の墓所には20~30基の五輪塔・宝篋印塔(ほうきょういんとう)が散在しますが、その一郭には菊池の武将、赤星有隆や城武岑(たけみね)のものと伝えられる墓石があります。また享保13年(1728年)制作の釈迦涅槃(ねはん)像の掛け軸が保存されています。
 菊池市指定文化財。
輪足山東福寺  東福寺は菊池市隈府の東、城山丘陵の中腹にあり、輪足山(わたるざん)松林院と号する天台宗の勅願寺です。門前には加藤清正により開かれたと伝えられる築地井手が流れています。
 創建年は和銅2年(709年)覚仏の開基説や天慶元年(938年)澄慶の開基説など諸説あります。本尊は千手観音立像で、脇侍不動明王立像、毘沙門天立像の3像と、仏画の絹本著色不動明王画像は、いずれも熊本県指定重要文化財です。
 現在の本堂(間口3間×奥行5間)15坪と庫裏(くり)(間口7間半×奥行3間)22.5坪は、文政2年(1819年)に再建されたもので、境内には元弘塔(1331~1334年)、建武塔(1334~1338年)、応永塔(1394~1428年)、永享塔(1429~1441年)、寛正塔(1460~1466年)など10基の石塔があります。
 『寺縁起』には天禄元年(970年)に菊池一族とみられる名の政高なる人物が、郡司として寺に田地を寄進しています。『国郡一統誌』は「延久4年(1072年)菊池則隆再興」と記し、盛時には36坊が建ち並んだとされています。
 菊池市指定文化財。
熊耳山正観寺  正観寺は菊池市隈府にあり、城山丘陵の下に位置します。
元弘3年(1333年)、12代武時が博多の鎮西探題を襲撃したとき、幼少の武光は博多の臨済宗聖福寺にかくまわれ、菊池へ無事に送り返されました。その恩義を忘れなかった武光が、同寺の大方元恢(たいほうげんかい)を招いて興国5年(1344年)に建立した寺院が正観寺であり、武光の菩提寺です。元恢は京都建仁寺の開山栄西の法孫、鎌倉円覚寺の秀山元中(しゅうざんげんちゅう)の法嗣(ほうし:師匠の教えを受け継いだ人)にあたり、同寺にある「洪釣堂(こうせんどう)」の額は元恢和尚の真筆と伝えられています。
 武光は寺領66町を寄進し、菊池氏全盛の頃、境内には万松院など14の坊や堂宇が建ち並び、宝徳3年(1451年)、20代為邦(ためくに)の頃には全国十刹の一つに数えられ、代々碩学(修めた学問が広く深いこと)の高僧を輩出した西国屈指の大寺院でした。
 当時の菊池には寺院を運営することができる米づくりに代表されるような豊かな経済的基盤があったのでしょう。
 しかし、菊池氏の衰退とともに寺運も傾き、元禄3年(1690年)に細川綱利が寺領12石5斗を寄進し、寺の面目を保ったといわれています。境内には正観公(武光)神道碑や武政、武澄らの墓があります。
 菊池市指定文化財。

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